『アイユ』連載「感染症の歴史における差別」 第9回

 

 

 コレラは飲み水によって経口感染するコレラ菌による急性消化器感染症である。激しい下痢で急速に体内の水分が失われる脱水症状が起き、時に死につながる。

 病原体はインドのガンジス川下流域が起源であると考えられている。英国のインド支配(1757年、プラッシーの戦いでインドにおける覇権確立)により英国に持ち込まれ、そこから世界に広がって行った(第1回世界流行1817~1823年)。これ以降第6回(1899~1923年)まで世界流行が短期間に繰り返されている。第3回(1840~1860年)流行時の1854年において英国のロンドンでの流行の際にジョン・スノーが発生患者の地図上の分布から流行中心にあるポンプを発見し、その使用を止め流行を収束させた。後にそのポンプの井戸水へすぐ脇のトイレの汚水が混入していた事が判明した。後世彼は「疫学の父」と言われている。これはコレラ菌の発見(1854年イタリアのパッチーニ、後に1884年コッホの再発見によって広く認識された)より早い。

 日本には、1822年に朝鮮半島または琉球経由で初めて持ち込まれたが、人の移動を制限する箱根の関所などが有効に遮断の機能を果たして流行は西日本にとどまり江戸には入らなかった。次いでペリー来訪(1853年)以降に持ち込まれ1858年に大流行した。この時は、江戸だけで1万人以上が亡くなり、荼毘(だび)の場所が逼迫(ひっぱく)した。感染後症状が急速に進行して急に倒れる(亡くなる)ことから「虎列刺(ころり)」と呼ばれた。

 厚生省が分離設置される(1938(昭和13)年1月11日)以前には内務省が感染症対策を担っていたが、多くの担当警察官が感染して殉職し、各地に顕彰碑が残る。また、第4回流行時(1863~1879年)の1877(明治10)年、日本全国に流行が広がり、千葉県鴨川町(当時)では政府の依頼派遣でコレラの治療と防疫を担当していた佐倉順天堂出身の俊英の医師沼野玄昌が、消毒用薬液を毒薬のごとく夢想した民衆によって井戸水に毒をまいてコレラを広げていると誤解され、鴨川河畔において撲殺される悲劇が起きた。治療防疫対策への広く行き届いた説明が不足していたことが背景にあったと思われ、パンデミックにおいて正しい情報の周知が必要であることを教えてくれる。このような悲劇は、少なく、小さくなったとはいえ21世紀になってもなくならない。人々の見えざる物への恐怖心を正しい情報によっていかに減らすかが今も変わらぬ課題である。

 

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加藤 茂孝(かとう しげたか) 国立感染症研究所室長、米国CDC(疾病対策センター)招聘研究員、理化学研究所新興・再興感染症研究ネットワーク推進センターチームリーダー、WHO非常勤諮問委員、日本ワクチン学会理事などを歴任。現在、保健科学研究所学術顧問。
専門はウイルス学、特に、風しんウイルス及び麻しん・風しんワクチンの研究。胎児風しん感染のウイルス遺伝子診断法を開発して400例余りを検査し、非感染胎児の出生につなげた。
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