『アイユ』連載「感染症の歴史における差別」 第3回

 

 

 ハンセン病は、癩(らい)やレプラと呼ばれていたが、らい菌をハンセンが発見(1873年)したので、今はこの呼称である。時代、国にかかわらず差はあったが社会的に差別されてきた。症状が皮膚病変であり、知覚神経麻痺・手足の指の変形があったからである。

 戦前、健康な男子以外は兵士としてふさわしくないと、結核、精神病、梅毒などと共に社会的に差別を受けた。国立療養所でハンセン病患者の看護に献身した小川正子の「小島の春」(1938年)の影響もあった。患者への深い愛情が伺えるが、映画になり逆に国民に対してハンセン病が感染症であり隔離が必要であるという多少過剰なメッセージをもたらした。以前は、生涯自宅で執筆活動を行った生田長江がいたし、小笠原登による患者が外出もできた病院があったが、1936年に始まった「無らい県運動」により療養所隔離が進んだ。北條民雄の「いのちの初夜」(1936年)は、患者の苦悩を伝えている。小笠原登は1941年に学会から追放された。

 医師として診断・治療に力を尽くし隔離政策を推進した光田健輔は、患者へのシェルター思想は持っていたが人権思想は希薄だった。彼は患者の断種・堕胎を導入し、療養所内の規則に従わない患者に対して療養所長に懲戒検束権を与え、栗生(くりう)楽泉園(群馬県草津町)には重監房さえ設置した。一方、療養所内の裁判は特別法廷として公開されず、1953年に死刑判決が出され、後に執行された菊池事件は後世の検証で違法と認定され、2016年5月2日に最高裁判所長官が、2017年3月31日には最高検察庁が謝罪した(後に違憲とも認定)。

 大風子油(だいふうしゆ)を使った初期治療による改善以外に治療薬がなかったが、1943年にはプロミンによる効果が認められ、1946年には石館守三による国産化で、ハンセン病は完治できる病気に変わった。

 患者への差別は、戦後の方が社会から無視された側面がある。完治が明確になった以降でも隔離政策が続いたこと、らい予防法の廃止が提案されながら50年も放置された事である。厚生省(当時)内で廃止が提案されても、省内や国会で反対があり、やっと2001年5月に熊本地裁での判決を小泉純一郎首相(当時)が受け入れて、6月22日にハンセン病補償法が施行された。

 現在、療養所は解放されているが、元患者は帰郷できなかったり本名を名乗れなかったり、納骨も療養所というのが1/3ある。実際の症状での差別に加えて社会的にも苦しめられたという意味で患者は二重の苦悩を背負っていた。

 

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加藤 茂孝(かとう しげたか) 国立感染症研究所室長、米国CDC(疾病対策センター)招聘研究員、理化学研究所新興・再興感染症研究ネットワーク推進センターチームリーダー、WHO非常勤諮問委員、日本ワクチン学会理事などを歴任。現在、保健科学研究所学術顧問。
専門はウイルス学、特に、風しんウイルス及び麻しん・風しんワクチンの研究。胎児風しん感染のウイルス遺伝子診断法を開発して400例余りを検査し、非感染胎児の出生につなげた。
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